それは在ったはずのない、いつかの
│あらたゆん(風紅丘)

 うとうとと、酷く浅い眠りの世界を静かに揺蕩う。こんな穏やかで凪いだ気持ちでうたた寝が出来るようになったのも、百合子と二人で暮らすようになってからだ。
涼しい風が頬を撫で、木陰から漏れてくる柔らかな日差しは暖かい。何より、すぐ近くには愛しい彼女の気配をずっと感じられているのだ。身体から無駄な力が抜けていき、張り詰めていた心が解けていくのを感じながら、俺はこの幸せな一時を享受していた。
「ねぇ、起きて。ねぇってば」
 幸せな一時を邪魔されてしまったが、この可愛らしい声に逆らう術を俺は知らない。耳元で聞こえる百合子の愛しい声に、俺の微睡んでいた意識はゆっくりと覚醒に近づいていく。
 それなのに百合子は俺の身体を遠慮無くゆさゆさと揺すり、気持ちのいい眠りを妨げようと大きな声で何度も俺に声を掛け続ける。
「もう。こんなところで寝ては駄目って、いつも私にお小言言ってる本人がお昼寝しているんですもの。なんだかずるいわ」
 だってそれは、百合子はお転婆とはいえ女性であって、仮にも由緒の正しい姫様で。俺なんかと比べたらいけないって何度も言ってるはずなのに、そう言うといつも悲しそうな顔をしていたから、もしかしたら覚える気なんてないのかもしれない。
「あ、違う。私も寝たいとかそういうんじゃなくて、」
 あぁそうか、そういうことか。
「──きゃっ!」
 俺に触れていた彼女の手を強く引いて、俺は晴れて共犯者を手に入れることに成功する。突然のことに何の抵抗もすることが出来なかった百合子は、どさりと俺の胸の上に倒れ込んできた。そのまま彼女に腕枕をしてやって、柔らかい髪に頬擦りしながら優しく抱き締めた。
「お、起きていたならそう言ってくれればいいのに! 意地悪ね」
「でも、百合子だって本当はこうしたかったんだろう?」
 俺の意識はまだ半分だけ夢の中に居るようで、彼女が口を噤んでしまうと、またうとうとと眠ってしまいそうになってしまった。微睡んだ意識の中に、彼女の香りと感触だけが心地良く広がっていく。
「あぁっ! また寝ようとして。明日は特別な日なんだから、今日は準備のためにもちゃんとお屋敷の中に居なさいねって、お母様も仰ってたでしょう?」
 と、そんな百合子の一言で、微睡んでいた俺の意識は完全に覚醒した。
「だから観念して目を覚まして。清お兄様!」
 大きく見開いた俺の瞳に飛び込んで来たのは、俺のよく知っている大人びて落ち着いた真島百合子ではなく、復讐に燃えていたあの頃に遠くから眺めていただけの、幼く活発な、赤い着物のよく似合う野宮百合子その人だった。







to be continued...